ディレクターズワークショップ2018大阪 「マイム」

 

DWS最終日、豊島班発表後の質疑応答にて出た質問。

「今回の上演で俳優に何を期待したのか」

「マイムで表現されるこの作品を、俳優とダンサーのどちらにやってもらいたかったか」

これらの質問を受けて、私なりにちょっと考えたこと。

 

後日談になるが、豊島さんのDWS感想文を読ませて頂いた。その中に、「理(屈)を超えた美でもって殴る」という言葉があった。これは豊島さんが成果発表に向けて掲げていたテーマである。

ここで私も、この「理」と「美」、そしてマイムについて思うことを語りたい。

そもそもマイムに関して、何の知識も持ち合わせてはいないのだが…豊島班に参加して感じたことを、初心者なりの目線で記したものである。

 

 

まず今回のように戯曲を扱う場合、マイムに「理」は必要なものであると考える。

この戯曲を選び、現代に上演する理由は何か。観客に何を伝えたいのか。

その答えは戯曲の奥深くまで潜った時、初めて見えてくる。そこに到達出来るまでの「理」を演者が持ち合わせていなければ、上演する意味が無い。つまり読解力が必要だということ。

普段から戯曲を読み込み、読解力を磨く立場である俳優には、この「理」があるはず。

「理」無くして俳優とは名乗れないだろうと、自戒も込めて主張したい。

その為「戯曲をマイムで上演する場合、俳優の力は必要不可欠である」

これを私の意見とする。

 

「理」から「美」が生まれるとしたら、この「美」とは何だろう。

唐突だが、ここでとある画家について触れてみる。

ピカソの絵を、どう観るか。

一見、子供が適当に描いた絵のようにも感じられる。それが世界中で「美」として認められているのだ。何故だろうか。

実はピカソは、最初からそのような絵を描いていた訳では無いらしい。

彼はデッサンから入ったという。画家は誰もがデッサンを基礎、骨格としている。このデッサンを削ったり膨らませたりする中で、独自の作品が生まれるのだ。緻密なデッサンがピカソの作品に変貌していく。その過程があるからこそ、彼の絵には「美」が感じられるのだろう。

ピカソを思い出しながら、私は考えた。マイムというのは「理」(デッサン)を核として、それを削ったり膨らませたりしながら「美」へと昇華させたもの、ではないだろうか。

結果として、完成品が原型をとどめない形となっても、確かな「理」を核として創作されたものならば、その作品は「理」を超えた「美」であるといえる。

「理」だけでも「美」だけでもない、2つの見事な融合がマイムとなりうるのだ。

 

今回豊島班で、マイムに触れながら感じたこと。

私は俳優だが、時に頭でばかり考えてしまうことがある。どう表現しようという自分の見せ方に気を取られ、相手役を見失う。ここで救世主となるのが、マイムだ。

例えば負荷を与えられた時、考えるよりも先に身体が動く。動かさざるを得ない。さらにここに相手から何かしらのアプローチが与えられたら。これまた反応せざるを得ない。意識は自然と外へ向かい、感度が上がっていく。内向きになった俳優を外へと連れ出してくれる。マイムにはそんな役割があるのではないか。

何より身体は嘘をつかない。よって、身体に影響されて出てくる言葉は真実となる。

マイムというのは、実は一番真実に近いところにいるような気がするのだ。

 

難しいのは、観客との距離感。私自身、今までコンテンポラリーダンスなどを観た時に、一生懸命動いているけれどよく分からないな…と思ってしまうことが多くあった。作品に対して距離を感じてしまうのだ。

今回の稽古で、一見意味の分からない動きにも意図や目的があることを知り、言葉に頼れない厳しさを目の当たりにした。こうしてマイムを立ち上げていく過程を知ると、作品に対する見方もだいぶ変わってくる。

しかし一般の観客に伝えるには、相当の試行錯誤が必要となりそうだ。作る側としても、単に分かりやすくするのは妥協であるし、ただの説明となりかねない。「理」から「美」を追求していく過程でどこを削るのか、膨らませるのか…マイムならではの駆け引きがある。

それを乗り越えて、圧倒的な「美」が生み出される瞬間ってどんなものだろうか。

マイムと出会って、自分もそこに挑戦してみたいという気持ちになった。

 

 

 以上、私のぐるぐる考えたマイム論、終わり。

 

 

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